王昭

現代日本画に魅せられて-日本留学への道王昭②-

愛新覚羅溥儀のと幼少期の王昭

このようにして物を観察する方法を学び、八歳以降毎年、「国際児童画展覧会」で入賞した。十五歳の時、「全国少年児童画展」に出演した作品は、ことのほか好評を得、父母について伝統的水墨画の技法を学び、北京の少年宮ではデッサンなどを習得することになった。まさに画家への道を歩もうとしたこの年に、中国では「文化大革命」が勃発した。

私は六九年、西北地方の黄土高原のとても辺鄙な山村に下放された。そこには、電気、水道はもちろん、ガスや家屋もなく、人々は山に洞窟をほって住んでいた。毎日、空が明るくなると、現地の農民と一緒に農作業をし、暗くなると戻り、疲れた体で御飯を作るのだった。

夜遅く人々が寝静まるころ、私は小さなランプをつけ、遠くで吠える狼と野犬の「交響曲」を聞きながら、はるか離れた親や故郷を偲んだ。

目の前には、絵の台になるような机も、画紙も、筆も、顔料も、美術書も何一つない。この残酷な現実に直面し、心は激しく震えた。私はどうすればいいのか!?やっと芽生えた画法も、このような土地で枯れ果てるのか。小さいころからの絵に対する思想も、生活環境の激変で、見る影もなくしぼんでしまうのか。いや、そんなことは決してない。

私は決心した。条件が一切そろわなくても、絵をかく条件は作り出すことができる。壁の上には白土で画板を作り、炭の粉とニカワでこしらえた墨汁で、いつも見ることができる牛、馬、豚、羊などを描いた。この地の農民は、こうして描いた私の絵を非常に喜んでくれた。これが私の大きな励ましとなった。北京の親からもしだいに美術書や画材などが送られてくるようになった。絶望だと思った農村での四年間も、絵と関係が切れることなく過ごせた。その後、私は西安の鉄道局に配置換えされ、鉄道の保線工となった。一介の農民から一介の労働者へ。

北京の画家の家庭で苦労知らずに育った私は、急激な変化をとげた。衣食に困ることなく、絵をかくことだけに没頭していればすむ幸せな少年時代から、生活の苦労を味わった西安地区での十年余りの青春時代。この時、初めて最下層の農民と最下層の労働者の思想や感情をも、私の作品に自分のものとして表現できるようになった。

この十年間、「延安地区展覧会」「陝西省美術展覧会」「西安市美術展覧会」などに多くの絵を出展し、好評を得た。そして「西安鉄道新聞社」の美術編集部員に採用されることになった・・・

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