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ラストエンペラーとして知られる愛新覚羅・溥儀(プーイー)。王昭(ワン・ジョオ)さんは、溥儀のおいで、画家として日本に暮らしています。1950年に生まれ、文化大革命も経験した王昭さん。「ドアを自分で開けたことがない」「宮廷料理よりジャージャー麺が好物」というラストエンペラーの素顔。画家としての半生を聞きました。

幼い頃から絵の道へ

王昭さんは1950年、北京に生まれました。

母は愛新覚羅・溥韞娯(プユンユ)で、ラストエンペラー愛新覚羅・溥儀の六番目の妹です。父の王愛蘭=完顔愛蘭(ワンヤン・アイラン)は、中国の金王朝(1115-1234)の世宗の27代の直系子孫です。

両親はともに中華人民共和国建国後に設立された名高い「北京画院」の画家でした。王昭さんも小さいころから絵の道を志しました。

愛新覚羅溥儀のと幼少期の王昭

「どう見ても変な人」

伯父であるラストエンペラーとの初対面は、現在でも鮮明に覚えているそうです。

「小学生3年生の時、急に母親に呼び出されました。『ある親戚』に会いに行くと言われました」

「会ったのは背が高いおじさんでした。服はちょっとよれよれで、縮んだ時代遅れのものでした。帽子をかぶり、そして丸いメガネをかけていて、どう見ても変な人でした」

その「どう見ても変な人」がラストエンペラー溥儀でした。

「おじさんは親切に話しかけてくれました。首に紅領巾という赤いスカーフをしていたんですが、興味津々な様子で、『これは毛沢東主席がくれたの?』と聞いてきました」

当時、中国の小学生がみんな持っていた紅領巾を知らなかった溥儀に、王昭さんは「変な人だなぁ」と思ったそうです。実は、その時、王昭さんが会った溥儀は、10年間いた撫順戦犯管理所から出たばかりでした。

自分でドアを開けたことがない

清王朝や満州国の皇帝生活が長かったため、溥儀の生活は「ちょっとずれていた」そうです。

・手でドアを開ける習慣がなく、いつも足で蹴ってしまう。紫禁城などでは自分でドアを開けたことがなく、ドアはすべて自動で開くと思っていた。

・手の洗い方を知らない。せっけんを手につけてから、水をつけていた。

・服のボタンがはめられない。いつもずれていた。

・背が高く、いつもドアの縁の同じところにぶつかる。機嫌が悪くなると、壁を取り壊す言い出す。

・料理ができない。おなかがすいたら、時々、王昭さんの家にジャージャー麺を食べにきて「皇帝専用の300皿ある宮廷料理よりもずっとおいしい」と絶賛。

「改造」で腕相撲が強かった

「おじさんのひざに座った時、手の青い筋が太かったんです。おじさんは、撫順戦犯管理所で石炭を担いだ労働の結果だと言っていました」

腕相撲が大好きだったという溥儀。ラストエンペラーのイメージに反して、けっこう強かったそうです。一方、溥儀は王昭さんに、よく「党の話を聞き、毛主席について行こう」(听党的话,跟毛主席走)と話していました。

「この一文をよく書いてくれましたよ。一枚でも保存しておけばよかったけどね」

「皇帝」が住んでいると聞いた清王朝の大臣やその子孫が、召使としてお世話したいという申し出もあったそうです。

そんな時は「昔の皇帝溥儀はすでに死んじゃった。現在は新しい公民の溥儀です」(以前的溥仪死了,现在新生了)と溥儀は話して断っていたそうです。

「皇帝から一人の公民になった叔父は、幸せだったのかどうか、私には分かりません。でもそれも彼の運命だったでしょう…」

「上山下郷」を経験

両親が北京画院の画家だった王昭さん。生活に不自由はありませんでしたが、文化大革命期間中「思想改造」のためとして学生を農村に送る「上山下郷」を経験します。

1969年、高校卒業した王昭さんが「下放」(労働)したのは陝西省の延安でした。下放先の村には電気も水道もガスもありませんでした。延安では農業だけでなく、映画の技師、鉄道の労働者などを経験しました。

ラストエンペラーのおいだとわかると、最も条件の悪い場所での最も重い労働が与えられたそうです。

「それでも、絵への情熱を捨てませんでした。豚や鶏など農村生活を絵に取り入れ、水墨画だけでなく、油絵やガッシュなどを習得しました」

毛沢東の肖像画や、労働者・農民・兵士の絵などで、人物画の技法も磨き、延安地区の美術展覧会で大賞も獲得しました。

墨龍F50号 116.7x91cm

平山郁夫に衝撃、日本に留学

10年間の「下放」の後、北京に戻った王昭さんは、最年少の画家として北京画院に入りました。そこで、日本の平山郁夫に衝撃を受けます。

「中国画の力強さと、日本画の美しさを融合したくなり、日本留学を決意しました」

1982年に来日。東京芸大で平山郁夫の門下として経験を積みます。中国の水墨画と日本画の融合が日本で評価され、1984年12月に銀座での個展を成功させました。

その後、北京や深セン、台湾、フランス、ドイツなど、世界各地で個展を開いてきました。

2012年には、父方の祖先で金王朝発祥の阿城で「完顔昭記念館」が建設され、王昭さんの絵も常設展示されています。日本国内でも2017年4月1日から5月29日までも熱海で王昭展が開催されています。

日本に帰化

来日して35年、祖先が住んでいた長白山から名前を取り、長白(ながしろ)という名前で帰化し、日本人として生きています。

今後も「万巻の書を読み、万里の道を行き」、腕をさらに磨き、好きな絵を描き続けたいと話す王昭さん。

「歴史は淡い雲のようにすでに過ぎ去ったものですが、テレビドラマや歴史書などでは、ラストエンペラー、西太后、(西太后を母として育った)光緒帝の姿を見かけます。自分と血がつながっており、身近な存在であることを時々思い出すのは、不思議な感じですね」

「ただし、それらは過ぎたこと。数百年後、ラストエンペラーのおいというより、王昭が画家であることを思い出してもらえれば満足です」

F6号 41x31.8cm

wrote by rong zhang on 5/6/2017

おじさんはラストエンペラー「どう見ても変な人」画家が語った思い出

 

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